今日もほんわか

心と体のほんわか手当てをしています。

日常やケアを通して感じることを綴るブログです。

皆さまがご自分らしい元気で満ちますように。

堤 文子



もうすぐ伯父の命日だなぁと思っていたところ、偶然、伯父との思い出に遭遇しました。


20代の頃、伯父夫妻にドライブに連れて行ってもらったとき、

「子どもたちが小さい頃、渋滞中の車のナンバープレートでよくやった。」

という数遊びを教わりました。

以来ときどきやってみるのですが、ルールをうろ覚えで確信がありません。

伯母に訊いても覚えていないと言うので、モヤッとしたまま30年。


それが、たまたま付けたテレビの数学番組で紹介されていたのです。

伯父から答えを送ってもらったような気分でした。



Make10(メイクテン)とか10パズル(テンパズル)と呼ばれるそうです。

ナンバープレートのような4つの数字と四則演算+-÷×とカッコを使って10を作るゲームです。

0が含まれず、4つとも異なる数字だと、必ず10を作れるのだそうです。


例えば、

「1234」・・・・・・・・・・ 1+2+3+4=10

「4875」・・・・・・・・・・ 4+8-7+5=10


各桁の数字を1回ずつ使えば良く、使う順番は入れ替わっても構わないので、解き方は何通りもあります。


5ー8÷4+7=10


なんてこともできますね。


少しレベルアップして、

「2367」・・・・・・・・・・ (7-6÷3)×2=10


ナンバープレートは次から次に出題されるので、なかなか良いトレーニングになります。

脳トレにいかがでしょうか。

くれぐれも安全運転で!

今年もやって来ました、袋がけシーズン。

巨峰を作っている姉のところで、この時期少しだけ農作業のお手伝いをします。


どの枝にどの房でどれくらいの粒残せば立派な巨峰が育つのか、素人にはなかなかわかりません。

プロが何段階もの作業をして選抜で残っている房に、私はほぼただただ袋をかけていきます。

袋をかけないと、鳥や虫や雨風でヤられてしまうのだそうです。


専用の袋に房を差し込むと、袋の口には針金がついていて、それをクルクルッと巻いて口をなるべくピタッと閉め、雨や虫が入らないようにします。

延々と地味な作業ですが、これで美味しい巨峰がお届けできると思うと頑張れるものです。


ロボットもAIも技術は進んでいきますが、フドウの袋がけマシンが出来る日は来るのでしょうか。

今のところイメージが湧きませんねぇ。


さて、路地ものの巨峰、食べごろは例年お盆くらいです。

無事に美味しく育ちますように。

いのちの主体は魂だと思っています。

魂を護るのが霊で、それらが肉体に宿って一体となっていのち。

生きている間は分かつことはできないでしょうし、あるのかないのか、どの面をどう呼ぶのか、解釈の正否を論じるのも意味がないかなと思っています。



この頃こんなことを考えました。


本来はとても優しいのに妙に攻撃的になることが多い人がいて、なぜかなぁと疑問でした。

憑依体質で怒りっぽくなる人もいますが、それとも違う気がします。

直感力や察知能力がとても強く、スキルも高い。

あぁ、この人はとても霊力が強いのだろうと思い至りました。


霊は魂を護るためにあるので、危機的場面や当たりの強い人に触発されると攻撃に転じます。

魂の意向が届かないくらい、反射的に攻撃に暴走してしまっているのかも・・・と考えたら腑に落ちました。

ハンマーで膝を叩くと足がポンと跳ね上がるように、筋肉の反射は脳を介さず不随意に起こります。

もしかしたらこの人も、不随意に霊力が発動しがちなのかもしれない。

でもそれは魂が望んでいることなのでしょうか。

ちゃんと魂主導になっているのかなと気がかりです。



霊力同士のバトルではなく、魂同士の対話の方がずっと発展的でワクワクすると思うのですがねぇ。

霊力のガードを解くのは勇気も胆力もいることですが、その奥の触れ合いを大切にしたいと思うのです。

それが「腹を割って話す」ということかもしれません。

NHK朝ドラ『風、薫る』の今週のタイトル、どういう意味かしらと思っていたところ、教えていただきました。


中国の故事に由来する言葉で、

「疾風(しっぷう)に勁草(けいそう)を知る」

激しい強風が吹いて初めて、それに負けない強い草が見分けられる。

転じて、困難や苦難に直面した時にこそ、その人の本当の意志の強さや人間的な価値がわかる、という意味で使われるそうです。



いい言葉だなぁと、朝からひとつ賢くなった気分で車を走らせました。

奇しくも今日は、台風の影響でかなり強い風。

私はこの風に飛ばされずにいられるかしら~などと考えていると、遠く前方の横断歩道あたりが変です。

道路の真ん中に大きなゴミ袋がいくつも散乱していました。

今日は資源ゴミの日。

プラスチック用の折り畳み式回収ボックスが、強風に煽られて根こそぎ吹っ飛んだ瞬間だったようです。

現場まで私の前方に車は無く、これは車を停めて拾うしかないなと思いながら、進んで行きました。


すると、横断歩道を渡ったばかりの小学生の女の子が2人、その大きなゴミ袋を集めてくれ始めました。

ゴミ捨てに来られた男性、通りがかった自転車の青年たち、次々に輪が拡がります。

私が現場に差し掛かるころには、ほとんどが片付いてしまいました。

結局、会釈だけしてその場を通り過ぎました。

ほんの数十秒の出来事でした。



「勁(けい)」は「勁(つよ)い」と読むそうです。

単に力が強いだけでなく、風雪に耐えて折れない草木のように「しなやかで、決して屈しない強さ」を表します。

誰の仕事とも言えない突発的なことに、サッと動いてくださった皆さん。

内から湧き出る勁さを見せてもらったような気がしました。

知人が五十肩で通院中とのことで、どのような運動指導を受けているか教えてもらいました。


コッドマン体操と言われるもので、振り子運動、振り子ストレッチなどとも呼ばれます。

痛む方の腕をだらんと下げ、腕を振り子のように前後左右に揺らしたり回転したりするというもの。

腕が脱力できるように上半身を傾けるのがコツですね。

そうすると重力と慣性の力に任せて、痛む関節に負担をかけずに可動域を広げることができます。



肩関節に現れる痛みと運動障害を肩関節周囲炎、通称五十肩と言います。

四十肩とも言いますが、起こる年代で呼び方を変えているだけで、医学的な違いはないそうです。

ヒトは胴体の幹に腕や脚がハマった構造をしているので、どうしても繋ぎ目にトラブルが起こりやすくなりますね。

肩関節と同じように、股関節の周囲が炎症を起こす五十股もこの頃取り上げられるようになりました。

それについてはまた後日。

昨夜2時頃、自室の網戸がガシャンと鳴りました。

風かな?と思ったのですが、その後もガシャガシャ音が続きます。

うちの猫が窓辺へダッシュして行きました。

「あ゛ぁ、なんか生きものか…?」

少し気味も悪いので、電気を点けずに恐る恐るカーテンを開けました。

目を凝らしても何だかわからず、携帯ライトで照らして探してみると、

「!?!!!」

コウモリでした。

エコーロケーションの使い手が、なぜ今そこに!?

窓を閉めてから数時間経っていますし、どのタイミングでどこから入り込んだのやら、ガラス窓と網戸の間に閉じ込められた状態です。

至近距離初対面のコウモリに、猫は大興奮。

記念撮影した後、反対側から網戸をそっと開けると、隙間から飛んでいきました。

ビックリしましたー。


コウモリにまつわる過去記事はこちら。

『見えないけれどあるもの』 https://honwaka.theblog.me/posts/18178156

筑後平野はお米と麦などの二毛作のところが多く、春にはあちこちが麦畑になります。

収穫間際の今頃、麦畑は一面金色になって、その上を風がサワサワと走って本当に美しいです。

この景色がまさに麦の秋、麦秋(ばくしゅう)。

稲穂より麦の穂は軽くて上向きのまま熟れるので、風に揺れるときも軽やかです。


お米が熟れる頃が本当の秋なので、麦の秋というのは借り物のような偽物感が混じっています。

一方で、秋というとどこか斜陽な雰囲気がありますが、麦秋の“秋”にはそれを感じません。

これから夏へ向かう上向きなエネルギーがあるからでしょうか。


こういうちょっと相反するような微妙なニュアンスの言葉の響きと、金色に輝く美しい風景とがリンクして、麦秋は私の好きな日本語第1位です。



10年前の今日、SNSにアップしていた写真が上がってきました。

どこで撮った写真か忘れてしまいましたが、こんなキャプションをつけていました。

「麦は頭を垂れないけれど、実りの感謝に揺れている。」

母と「孤独」について話しました。

両親を亡くされた知人がご兄弟とも折り合いが良くなく、天涯孤独のように暮らしているということからでした。


母「人は誰でも孤独よ。その孤独が大きいか小さいかの違いで。」


孤独が深いとか孤独感が強いとかではなく、大きい小さいという表現が独特だったので、どんなイメージで使ったのか訊ねました。


母「内に籠って自分の世界を狭めていく人は、孤独が大きい。交流や世界を広く持っていても、その人の中にも孤独はある。ただそっちの方が小さいというか・・・。」

私「自分の世界に占める割合のようなもの?」

母「そうね。でも、孤独を持つことは大切なこと。」

私「幸せな家族や仲間に囲まれていても、孤独と思えば孤独だもんね。逆にそれを大切にしないと、全てを共有し合って暮らすのはよろしくないこともあるよね。」


共依存になり過ぎないためにも、自分の中に孤独の領域を持つのは大切なことのように思います。



そんな話から、私が小さいときの思い出話になりました。

私は全く覚えていないのですが、小学4年生くらいだったろうと母は言います。

髪を切るとか切らないとか些細なことだったようなのですが、私が何かを相談したとき母が

「好きにしなさい。」

と言ったら、私が酷く泣いたのだそうです。

母に決めて欲しくて相談したのに、突き放されたような、ほったらかされたような気がしたのだろうと。

「そうじゃないよ。自分のことは自分で考えて決めるってことよ。」

と説明したら納得したそうで、

「お陰で今もあんたは人から決められるのが嫌いよね?」

と笑われました。



孤独について話せる相手がいるのは、有難いことですね。

使うのは西日本でしょうか。

「ふが良かったね。」

というと、運が良かったね、めぐりあわせが良かったね。

「ふが悪かったね。」

というと、運が悪かった、ついていなかったというニュアンスになります。


身に付けて邪気を払い災いを免れるためのおふだを「護符」というように、「符(ふ)」には天や世に通じ示すしるしの意味があります。

そこから、めぐりあわせ、運、天からの知らせとして使われるようになったのでしょう。



この頃は「ふが悪い」で済まさない風潮が強くなっているような気がします。

昔は「不運な出来事・事故だった」としたことも、今では徹底的な原因追及、管理責任を問われます。

悲しみ苦しみ怒りの矛先は、「ふ」というあいまいな神秘ではなく、誰かに向けられるようになりました。

もちろんそれが必要なことも多くあると思いますが、あまりに攻撃的になるのは怖いです。


例えを出すのは難しいですが、公園の遊具問題や、自然の中での事故など。

リスクを完全撤廃しようとすると冒険も自由度もなくなり、何かが生まれる可能性も楽しみも取り去られてしまうように思います。

人智が及ばないことも起こりうる訳で。


あいまいな神秘を排除しすぎると、人の逃げ場もなくなります。

ブラックボックスかプラチナボックスかわかりませんが、「ふ」のような感覚は残しておいた方が心には平和かもしれません。

気の合う伯母がいます。

遠くに暮らしているのでなかなか会うことができませんが、なんとなく通じているような気のする人です。


昨年久しぶりに会いに行って、ゆっくり話をしました。

90を越えても体はしっかりして、食器を乗せたお盆を持って階段の上り下りができる程。

会話はときどきループするようになって、さすがに年を取りました。

伯母の部屋には、思い出の写真や手紙、手作りの小物などがたくさん飾ってあり、霞がかかるようになった記憶を覗いているような気持ちになります。

中に少し異質な活字のプリントを見つけました。


「他人の悪口は嘘でも面白いが、

 自分の悪口は本当でも腹が立つ」


なるほどねと笑いました。

自分の悪口は、本当でもというより、本当だから腹が立つのでしょうね。

伯母がなぜこれを取っておいたのかはわかりませんが、何となく書き留めて帰って来ました。

他人の悪口を面白がるようじゃぁいけないな。

自分の非はちゃんと受け入れないとな。

以来、悪口の場面に出くわすと、この言葉を思い出します。

おおよその桜も散って、一気に葉が芽吹いてきました。

地域や種類によってはまだまだ盛りのところもあるでしょう。

久留米でも里桜でしょうか、遅咲きの八重が真っ盛りです。

昨夜はケア教室帰りにお仲間と夜桜散歩を楽しみました。


この時期は体調管理が難しいですね。

暑いのか寒いのか、何を着ていいのかわからない。

なんだかやたらと眠たかったり。

自律神経が乱れやすく、心の安定を保つのも難しいときがありますね。

地面から芽吹きの力が湧き上がってくるので、フカフカ浮いてしまわないようしっかり踏みしめなければと思います。


足首から下の撫で擦りなどいかがでしょうか?

足の甲に手を当て擦ると、抗重力(重力にあらがう力)が上がります。

足首周りのケアで足の甲が返しやすくなると、躓きにくくなります。

足裏をグーで擦って、老廃エネルギーを排出できるようになると、それに引っ張られて膝周りや鼠径部の詰まりが抜けやすくなることもあります。


自分でできるケアもたくさんあります。

自分だけではできないときは、私も他の方のお力を借りながらです。

地球と調和して、新しい季節に慣れていきましょう。

参考過去記事『木の芽どき』https://honwaka.theblog.me/posts/33244230

先日、車で母と1泊旅行に行きました。

高速道路に乗り、道のりの半分くらいのサービスエリアで休憩してまた走り出すと、エンジンの警告灯が点いていることに気が付きました。

異音や異臭はしませんが、何が起こったのやら怖いのなんの。

ようやく次のサービスエリアのガソリンスタンドまでたどり着けて、ひとまずホッとしました。


店員さんに見てもらって、エンジンオイルや冷却水は大丈夫そうでしたが、

「ここには整備士が居ないので、次のインターで降りて目の前のスタンドで整備士に見てもらった方がいいでしょう。このまま目的地まで走るのは危ないかも。」

とのこと。

途中で降りると高速代が高くつくなぁとか、午前中にあそこまで行きたかったのになぁとかよぎります。

でも、安全以上に優先することはありません。

教えられた通り次のインターで降りて、ガソリンスタンドに入りました。


とても感じの良い整備士さんが応対してくださり、機械を繋いで原因を探ります。

あるセンサーに異常が見つかって、そこを掃除してくださいました。

ところが、余計に酷くなってしまったそうで。

お仲間にも訊きながら色々調べてくださったら、クリーナーを使ったのが良くなかったとかで、部品を交換しなければならなくなりました。

整備士さんも

「僕がいらんこと掃除しすぎたから・・・。」

と申し訳なさそうに、

「代車をお出しするので、これで旅行に行かれますか?」

と。

慣れない車で慣れない場所を巡るのは不自由ですし、それでは帰りにまた自分の車を取りに寄らなくてはならなくなります。

どうせ、母と2人の気ままな旅行です。

サクッと気分とプランを切り替えて、車が直るまでその町を観光することにしました。


整備士さんに町のおすすめの場所と食事処を教えてもらい、お借りした代車でプチ観光です。

少し雨模様の中、咲き始めた桜も楽しみながらの贅沢な時間。

こんなことでもなければ、立ち寄ることもない土地だったかもしれません。

思いもしなかったところを代車で走りながら、

「不思議ねぇ。人生って面白いねぇ。」

と何度も何度も笑い合いました。


最初は翌日になると言われた部品も、無理言って午後には届けてもらい、目ぼしい観光が終わった頃にちょうど修理完了の連絡が入りました。

道の駅で買ってきたお菓子をお土産に、修理と代車と観光情報のお礼を伝えてお支払いしようとすると、

「お代は要りません。自分がいらんことしたせいなので。」

と頑なに仰います。

「いえいえ、そもそも交換が必要だったんですから。せめて部品代だけでも。洗車までしてくださって、洗車代を。じゃぁ代車の費用を。」

どれも「要りません」と仰るので、ご厚意に甘えさせていただくことにしました。

大して入らないガソリンを満タンにさせてもらって、予定の行程へ戻りました。


その後は車も快調で、行きたかったところも食べたかったものも買いたかったものもコンプリートで無事に帰って来ました。


こんな素敵な出来事があるのですね。

整備士さん始め、携わってくださった皆さんに感謝です。

最高の思い出になりました。

このご恩は他の方に3倍、5倍にしてペイフォワードしていきます。

整備士さんが「体に優しいおうどん屋さん」と教えてくれたお店