狂言と川柳
人間国宝・野村万作さん、萬斎さん、裕基さん親子3世代の狂言を鑑賞してきました。
貴重な機会、ありがたかったです。
能に比べると狂言は少し軽いような低いような印象をお持ちの方もあるらしいのですが、600年以上の伝統を持つ、日本の誇る文化です。
狂言には、およそ260の演目があるそうです。
今回鑑賞した「宗論」は、宗派の異なる僧が互いに自分の宗旨に改宗させようと論争し、最後には仏の教えに隔てはないというところに至ります。
狂言によく出てくる太郎冠者も、主に咎められはしても、事が過ぎればまた仲直りするのだろうなと想像させます。
そういうお題が沢山あるとのこと。
万作さんのお話から、「狂言の笑いだけではなく、もっと深いところも汲み取れるよう、観る方にも成長して欲しい」という様な想いを受け取りました。
確かに笑いというのは、観るものに委ねられるものが大きいなぁと感じます。
狂言は、
人間の習性や本質をするどく切り取って、大らかな「笑い」や「おかしみ」にしてしまう
とのこと。
狂言と川柳には通じるものがある気がしています。
私の父は川柳をライフワークにしてきました。
私はやりませんが、小さいときからいつも身近に育ってきました。
川柳も同じ575の俳句からすると劣るようなイメージをお持ちの方もいらっしゃるようで。
サラリーマン川柳は敷居を下げてはくれましたが、ダジャレで笑い・笑わせることが川柳の全てではありません。
川柳は俳句のように季語は必要なく、自由に詠むことができます。
季節に感じることも、喜怒哀楽も、全てがテーマです。
以前新聞に取材していただいたとき、父は
「人の脇に手を回して無理に笑わせるような川柳は品位に欠ける。一読して、くすっと上品に笑わせる川柳を詠みたいですね」
と答えていました。
父の川柳のお仲間たちは、冠婚葬祭イベント事いろいろな場面で句を寄せ合っていました。
結婚、出産、新築などお祝い事には祝吟(しゅくぎん)。
どなたかが亡くなると弔吟(ちょうぎん)。
お仲間の多くが旅立たれてしまったのですが、その中のお1人の句をご紹介します。
新築の木の香と灘の生一本 岩橋三馬
三馬(さんば)さんはお酒屋さんで、いつもニコニコ、とても可愛がってくださいました。
「灘の生一本」は家主の好きな銘柄だったのか、気質も生一本な方だったのか。
お祝いに持って行かれたのか、配達先でのことだったのか、自分の新築だったのか。
17文字から感じたり想像したりすることは、読み手の自由です。
三馬さんが亡くなられたあと、父を中心に遺句集を作りました。
本のタイトルを『生一本』として、墓前に本とお酒を供えて報告したそうです。
そんなことを知ってこの句を読むとまた、人の繋がりや故人の笑顔やいろいろなことを想ってジーンとしてしまいます。
笑いの奥にあるもの、笑いに乗せて届けるもの。
時に深みを汲んだり笑い飛ばしたり、自由でいいなと思います。
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