恒常性
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみにうかぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人と棲(すみか)と、又かくの如し。
【現代語訳】
流れる川の流れは絶え間ないが、しかし、その水はもとの水ではない。よどみの水面に浮かぶ泡は消えては生じ、そのままの姿で長くとどまっているというためしはない。
世の中の人と住まいも、これと同じなのだ。
鎌倉時代の歌人・随筆家、鴨長明の『方丈記』の冒頭です。
不遇な出来事の多かった鴨長明は50歳の頃出家します。
一丈(約3m)四方に囲まれた小さな庵「方丈庵」を建て棲家とし、そこの暮らしの中58歳でこの文章を書いたと言われます。
「方丈庵」は広さ5畳半、高さも7尺(約2.12メートル)くらいで、引っ越したくなったら分解して、車2台で移動できるような工夫がなされていたそうです。
「すべてのものは移ろい変わりゆくものだ」という無常観について教わった学生の頃は、何とも侘しい気持ちになりました。
でも歳を重ねてくると、安らぎのようなしみじみしたものも同時に感じるので不思議です。
「名誉や地位、財産を失ってしまっても、人は心一つで幸せに生きていける。」
鴨長明さんが仰りたかったことが少し分かるようになってきたでしょうか。
私たちの命は、恒常性の中にあります。
でもそれは“変わらない”ということではありませんね。
体温や血圧を一定を保つため、発熱したり発散したり、血管を締めたり緩めたり、常に調整がなされています。
顔かたちや背格好も一見同じのようで、常に細胞が作り変えられて、去年とは全く別の肉体になっています。
積極的に柔軟に今を作り変えないと、同じではいられません。
頑固過ぎては頑固を保てないのですから面白い。
環境や老化の摂理は、動く歩道のようなものかなと思います。
逆らって歩き続けないとコースアウトしてしまいます。
歩道の動きと逆行するスピードが一致したとき、見かけ上止まっているように見える訳です。
生きる上での壊すと作るのバランスでしょうか。
私たちはものを食べて代謝します。
私を構成するものは入れ替わっても、私は私のままで、動的な流れの中で平衡状態を保っている・・・。
生物学者・福岡伸一先生の仰る「動的平衡(どうてきへいこう)」です。
まだまだ暑い中、噴水を見上げてそんなことを考えました。
放物線に見えて、あの水はずっと入れ替わっているのだなぁ。
あのペリカンは塗り替えられたけど、中身は私が子どものときのままなのかなぁ。
ちなみに、行動医学療法の恒常性のための施術は、膝裏とアキレス腱を同時にそっと加圧します。
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